80万円で、報告書は一枚も来なかった。──同業の恥を、あえて書く
これから書くことで、同業に嫌われるのは、わかっている。それでも書く。二十年この業界にいて、いちばん腹が立つのは、外の敵じゃない。同じ看板を掲げて、客の弱みを金に換えるだけ換えて、成果を渡さない身内だ。
その女性は、うちに来る前に、すでに80万円を払っていた。別の探偵社に、だ。そして、報告書を、一枚も受け取っていなかった。
写真も、記録も、何もない。手元に残っていたのは、契約書の控えと、口頭で聞かされた「クロですね」という一言だけ。それで、80万円。——今日は、その話を書く。前の業者が、何をやって、何をやらなかったのか。うちが、何を変えたのか。相談室のドアの内側で、実際に何が起きているのかを、明かせるぎりぎりまで、書く。
相談室で、まず彼女がしたのは「謝ること」だった
彼女が椅子に座って、最初に口にした言葉を、私は忘れない。「……こんなことになって、すみません」だった。
依頼者が、探偵に、謝る。おかしいだろう。だが、これが、食い物にされた人間の典型なんだ。散々な目に遭わされた側が、なぜか、自分を責めている。「私が、業者選びを間違えたから」「私が、ちゃんと確認しなかったから」と。
聞けば、経緯はこうだった。夫の様子がおかしいと感じて、ネットで見つけた一社に、相談の電話を入れた。翌日、事務所に呼ばれた。そこから、話が始まる。
「その日のうちに契約」——これが、最初の罠だ
彼女が事務所に通されてから、契約書にサインするまで。二時間以上、部屋から出してもらえなかった。
本人は「軟禁されたわけじゃない」と言う。ドアに鍵がかかっていたわけでもない。だが、担当者が入れ替わり立ち替わり部屋に入ってきて、休む間もなく畳みかけてくる。「今日を逃すと、ご主人はもっと巧妙になります」「証拠は、鮮度が命なんです」「他社さんだと、この倍は取られますよ」。——不安を、これでもかと煽る。そして、決定的なのは、こうだ。「今、この場で決めていただければ、特別価格でお受けします」。
これが、この業界の、いちばん汚い手口の一つだ。まともな調査は、その日のうちに契約を迫ったりしない。 なぜなら、動く前に、調査の設計をしなきゃならないからだ。対象が誰で、生活動線がどうで、どの曜日のどの時間に賭けるのか。それを詰めないうちに「今日決めろ」と言うのは、設計する気がない証拠だ。設計しない調査は、当たらない。当たらなくても、金は取れる。だから、決めさせる。その場で。
彼女は、判断力が鈍ったまま、サインした。八十万円。内訳の説明は、ほとんどなかった。「調査一式」。その五文字で、八十万が消えた。
一つ、言っておく。まともな事務所なら、契約の前に、調査員が何人で、一日あたりの稼働がいくらで、想定日数が何日か、それを紙に落として説明する。追加費用がどういう条件で発生するのかも、先に示す。この「事前の説明」を省いて、総額だけをどんと出す業者は、そこで見抜ける。彼女の契約書には、その内訳が、ほとんど書かれていなかった。書けなかったんだ。設計していないんだから。契約というものが、動く前にどう確かめるべきものなのか。それを知っていれば、この二時間は、防げた。→ 探偵の選び方|信頼できる業者と、避けるべき業者の見分け方
「調査しました」の中身が、電話一本だった
契約から数日後。担当者から、電話が来た。「昨日、張り込みました。ご主人、あやしい動きがありました。クロの可能性が高いです」。
彼女は、聞いた。「写真は、ありますか」。担当者は言った。「今、まとめています。ただ、決定的な一枚を撮るには、追加でもう数日、動く必要があります。あと三十万、いただければ」。
これだ。これが、二つ目の手口。成果は口頭で匂わせ、証拠は「あと少しで撮れる」と吊るし、そのたびに追加を請求する。 クロだと言いながら、その根拠は見せない。見せられないんだ。撮っていないんだから。「あやしい動き」の中身を問い詰めても、「調査上の秘密です」で、はぐらかされる。
彼女は、追加の三十万は、断った。断れたのは、偉い。多くの人は、ここまで払った金を無駄にしたくない一心で、ずるずると追加を払い続けてしまう。サンクコストというやつだ。業者は、それを、知り尽くして商売にしている。
結局、彼女が最後まで受け取れなかったものが、報告書だ。一枚も。「クロですね」という口頭の一言に、八十万円。写真なし、日時の記録なし、行動の記録なし。——これを、証拠と呼べるか。呼べない。話し合いの場にも、どんな手続きの場にも、口頭の「クロですね」は、一円の価値も持たない。報告書というものが、本来どういう体裁と中身を備えているべきなのか。それを一度でも知っていれば、こんな空手形は、通用しなかった。→ 探偵の報告書の見方|信頼できる報告書と、中身のない報告書の違い
ここまで来ると、もう一つ、疑うべきことがある。そもそも、その業者は、本当に「調査」をしていたのか。届出も出さず、法を無視して動く業者は、実在する。そういう手合いは、成果も出せなければ、依頼者を守る気もない。動く前に、相手が何者なのかは、確かめておく値打ちがある。→ 違法業者に頼むリスク|依頼者にまで及ぶ危険と、見分け方
うちが、最初にやり直したこと
彼女が、うちの相談室に来たのは、そのあとだ。八十万を失い、証拠はゼロ。そして、夫への疑いだけが、消えないまま残っていた。
私が、まずやったのは、調査の話じゃない。彼女の話を、最初から、聞き直すことだった。前の業者が「二時間の畳みかけ」に使った時間を、こっちは、対象の生活を分解するのに使う。夫は、何曜日の何時に帰りが遅くなるのか。行き先を濁すのは、どういう時か。彼女が「なんとなく変」と感じた、その"なんとなく"を、一つずつ、日付と時間帯に翻訳していく。
調査は、聞き取りで、半分が決まる。 ここを二時間の営業トークで潰す業者と、ここに二時間を注ぐ業者とでは、同じ日数を動いても、結果がまるで違う。彼女の話から、私は、狙うべき曜日と時間帯を二つに絞った。やみくもに何日も張るんじゃない。当たりをつけて、そこに人を集める。八十万を無駄にした人に、これ以上、無駄打ちはさせられない。
もう一つ、前の業者と決定的に違うのは、報告の姿勢だ。うちは、動いた日は、その日のうちに、依頼者へ経過を伝える。何時から何時まで、どこで、何を確認したか。空振りなら、空振りだと、正直に言う。「動きなし」の報告は、書く手が重い。依頼者は、費用だけが積み上がる不安を抱えることになるからだ。それでも、隠さない。「クロですね」の一言で成果があったように見せかけ、追加を吊るす商売とは、そこが、いちばん違う。事実だけを渡す。都合の悪い事実も、渡す。それが、金を預かった人間の、最低限の筋だ。
見積もりは、動く前に、全部見せた。何日、何人で、どこを、いくらで動くのか。追加が必要になるとすればどういう場合か、それも先に、紙で示した。「調査一式」の五文字で八十万を取る商売とは、そこが、根本から違う。
そして、数日で。「言い逃れの利かない証拠」を揃えた
絞り込んだ曜日。うちの調査員が、対象の動線に入った。
一日目で、対象は動いた。前の業者が「数日張って撮れない」と言っていた相手が、だ。撮れなかったんじゃない。張っていなかったか、張り方が雑だったか、そのどちらかだ。当たりをつけた時間に、正しい人数で、正しい位置に入れば、対象は、こっちの網の中で動く。
だが、ここで喜んで撤収するのが、素人と、悪い業者だ。一日、押さえただけの写真は、証拠として弱い。「知人と食事をしただけ」と、いくらでも言い逃れができる。うちが目指すのは、"怪しい"の確認じゃない。彼女が、この先どの道を選んでも、崩れない土台だ。 そのためには、条件がある。
一つ。同じ相手と、同じ状況の出入りが、日を変えて、繰り返し記録されていること。一度きりは「魔が差した」で逃げられる。二つ。写っているのが対象本人だと、はっきり判別できること。顔の潰れた写真は、何枚あっても効かない。三つ。日時が、動かせない形で残っていること。
だから、うちは一日で切り上げず、日を変えて、同じ場面を、もう一度押さえた。入るところと、時間を置いて出てくるところ、その両方を、時刻とともに。——ここまで揃って、はじめて、「たまたま居合わせた」では説明のつかない、継続した関係の記録になる。八十万円で口頭の一言しか得られなかった相手から、数日で、一冊の報告書が生まれた。この差は、才能じゃない。設計と、手順と、撮り方を、省かなかっただけだ。
この三つの条件は、こっちが商売のために勝手に決めたものじゃない。事実を、後から誰かに問われても崩れない形で残す、というのは、調査の基本中の基本だ。前の業者は、この基本を、一つも満たしていなかった。一度きり、顔も定かでない、時刻も曖昧。それを「証拠」と呼んで八十万を取る。基本を省いた仕事は、どれだけ日数を重ねても、最後は、口頭の「クロですね」に化ける。
相手が誰だったのか。どうやって、それを突き止めたのか。——そこは、書かない。それが、こっちの商売道具だ。省いていい手順と、明かしていい手の内は、別の話でね。勘弁してほしい。
報告書を渡した日に、彼女が言ったこと
一冊の報告書を、彼女は、一枚ずつ、ゆっくりめくった。前の業者からは、ついに一枚も受け取れなかったものを。
最後まで見て、彼女は、しばらく黙った。それから、こう言った。「……これが、証拠、なんですね。私、八十万円払って、こういうものを、もらえるものだと思ってたんです」。当たり前の話だ。それが、当たり前じゃなくなっているのが、この業界の、いちばんの病だ。
彼女が、そのあとどうしたか。やり直したのか、けじめをつけたのか。それは、彼女が決めることで、こっちが書くことじゃない。ひとつだけ言えるのは、事実を手にした人間は、そこから先を、自分の足で選べるということだ。前の業者は、彼女から、その"選ぶ土台"ごと、八十万円で奪っていった。うちは、それを、返しただけだ。
最後に、これを読んでいる人へ。もし今、あなたが、どこかの事務所で「今日決めてください」と畳みかけられているなら。その部屋を、一度出ていい。まともな調査は、あなたが冷静になって戻ってくるのを、待てる。待てない業者は、待てない理由があるんだ。持ち帰って、内訳を読んで、家族に相談して、それでも頼みたいと思ってから、戻ってくればいい。八十万円を失う前に、それだけは、覚えておいてほしい。
※この記録は、実際の調査で起きうる事柄をもとに再構成した読み物であり、登場する人物・業者・金額のやり取りはすべて架空のものです。特定の実在業者を指すものではありません。
読んで、少し気持ちが動いたら。
相談は無料です。決めてからでなく、迷っているうちに話してくださって大丈夫です。